【千葉県偉人まとめ】本多忠勝

【千葉県偉人まとめ】本多忠勝(ほんだただかつ)ご紹介

【千葉県偉人まとめ】本多忠勝(ほんだただかつ)ご紹介

千葉県の偉人、本多忠勝をまとめてご紹介を致します。本多忠勝は徳川家康に仕え、57回以上も戦に出陣し、連戦連勝の大変な武将です。徳川四天王のうちの一人として有名です。

徳川四天王とは、徳川家康の側近、江戸幕府樹立のために活躍した四名です。酒井忠次(さかいただつぐ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)、井伊直政(いいなおまさ)らと並ぶのが本多忠勝です。

本多忠勝の名前が覚えにくい方は、ただ勝つから本多忠勝と覚えてみるのはいかがでしょうか?

本多忠勝は現在の愛知県である三河国(みかわのくに)で生まれました。本多忠勝は13歳の頃に桶狭間の戦いにて初陣、織田軍を支援、戦場で元服をしました。元服とは、武士が大人の名前をもらい、成人式を行うことをいいます。

織田信長が桶狭間の戦いにて今川義元を討ち勝利します。その後、姉川の戦い(あねがわのたたかい)では織田徳川連合軍に本多忠勝が参戦。朝井朝倉連合軍に勝利します。兵士の数では織田徳川連合軍が有利でしたが、朝井朝倉連合軍の奇襲作戦に苦戦したといわれています。

続いては三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)です。織田徳川連合軍と武田信玄率いる武田軍が衝突。本多忠勝は武田軍に夜襲を仕掛けます。夜に襲撃された武田軍は大混乱。武田軍に多大な損害を与え勝利します。

鉄砲で勝利したことで有名な長篠の戦い(ながしののたたかい)では、榊原康政らと協力し武田勝頼(たけだかつより)率いる武田軍に勝利します。連勝続きの本多忠勝の噂は全国に広がり、味方のみならず敵からも賞賛されていたといいます。

本能寺の変で織田信長が亡くなり、豊臣秀吉が明智光秀を討つことで台頭。秀吉は大阪城を築くなど、天下人として実力をつけていきます。これを良く思わない織田信長の次男、織田信雄(おだのぶかつ)と徳川家康が同盟を結び、豊臣秀吉と敵対する事になります。

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)が始まりますが、本多忠勝は留守を任されます。織田徳川連合軍が苦戦していると聞き、僅かな数の兵士を連れて救援。あまりの気迫に圧倒されて豊臣軍は撤退しました。

戦国時代の大勝負、関ケ原の戦いでは徳川軍本陣として出陣。それと同時に政治活動もしています。本多忠勝は井伊直政らと共に各地の大名に東軍(徳川軍)についてくれないかと書状を送ります。

書状を読んだ各地の大名が東軍に参戦。東軍の徳川家康、西軍の石田三成(いしだみつなり)が豊臣秀吉が亡くなった後の覇権をかけて戦います。戦況は五分五分でしたが、徐々に家康の味方が増えていきます。地道な政治活動が功を成し東軍が勝利します。

大阪の陣(冬の陣・夏の陣)は本多忠勝が亡くなった後の出来事です。

ちなみに、本多忠勝は大多喜城(おおたきじょう)という城を現在の千葉県大多喜町に持っていたそうです。千葉県の中部に位置する上総国(かずさのくに)にいた里見氏の話から始まります。

里見氏は上総国の大多喜藩を任されていました。ある時、里見氏に仕えていた武将、正木氏に大多喜城を奪われます。正木氏は何代にも渡って大多喜城を支配します。腹を立てた里見氏が正木氏から大多喜城を取り戻しますが、惣無事令(そうぶじれい)違反として豊臣秀吉に没収されます。

豊臣秀吉は里見氏から取り上げた上総国を徳川家康に譲渡します。徳川家康は家来である本多忠勝にそれを与え、本多忠勝が大多喜城の新しい城主となり、大多喜藩を任される事になりました。

惣無事令とは、豊臣秀吉が立てた法令です。大名間の私闘を禁止するものです。この頃から

本多忠勝は里見氏に攻められる事を警戒し、天守に大掛かりな工事を加え改築します。それと同時に城下町も作りました。

本多忠勝は戦のみならず、政治活動も行い、城を任されるなど数多くの活躍をしています。千葉県千葉市へお越しの際は、千葉市からもアクセスがしやすい大多喜城へお越し下さい。のんびりと、いすみ鉄道に揺られながら行くのがおすすめです。

大多喜城アクセス
千葉県中央博物館
千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481

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